概説
ダレイオス(
ダーレイオス Δαρείος)は
ギリシア語形、また
ラテン語形
ダリウス (
Darius)でも知られる。聖書
ヘブライ語・
アラム語では ??????????? Dār?yāweš。
本来の
ペルシア語では
ダーラヤワウ(
Dārayavau-:名詞幹のみの形)。
この名は「ワウ(よきもの)を保持する者」という意味である。
ダレイオスは、全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督(
サトラップ)を配置した。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達のために「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣した。このように中央集権体制を整備し、
エーゲ海から
インダス川におよぶ最大版図を統治したことから、アケメネス朝全盛期の王と評価される。彼の時代に新都
ペルセポリスが造営されたが、政治的中心は
スーサであり続けた。交通網の整備は、当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサとサルデスを結ぶ「
王の道」は有名である。中央集権的な統治体制を整備する一方で、帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍するアラム人や
フェニキア人の活動を保護した。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図ったが、その成果は限定的であったとされる。
スキタイ人征伐のため南ロシア平原に侵攻したが、スキタイの
焦土作戦に苦しめられて撤退した。また、イオニア植民市の反乱を機として、
ギリシアとの間で、約50年に及ぶ
ペルシア戦争を開始させた。しかし、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子の
クセルクセス1世に引き継がれた。
ベヒストゥーン碑文
王朝簒奪の疑念
アケメネス朝は、アケメネスを祖として、
キュロス2世(通称、大王)のときに、
リュディアや
新バビロニアを滅ぼし、
オリエントを統一して大帝国となった。ダレイオス1世は内乱の後、推戴されて帝位についたとされるが、この事件は、ダレイオスによるキュロスの王朝の簒奪ではなかったのかという疑念が近年提起されている。参考として、高校の世界史Bの教科書では、アケメネス朝ペルシアの
3代目の王として表記される場合が多い。
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)