前史
ペレストロイカと東欧革命
ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦体制を緊張緩和の方向に導く新思考外交、そしてもう一つが
東欧における
衛星国に対してのソ連及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。冷戦の緊張緩和については
1986年ソ連軍の
アフガニスタンからの撤退を表明。翌年
1987年には当時の
アメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI(
スターウォーズ計画)を巡ってレーガンと対立したが、当時の2大大国が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。
シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、88年のベオグラード宣言の中でこれを明文化し、世界中に対してソ連が東欧諸国に対する指導制を放棄したことを表明した。こうしたソ連の変化に対していち早く対応したのが
ハンガリーと
ポーランドであった。この2カ国はいち早く民主化運動に乗り出した。特に
1989年8月にハンガリーで行われた
汎ヨーロッパ・ピクニックは、同年11月に
ベルリンの壁崩壊を引き起こした。ベルリンの壁崩壊を引き金に、各国の共産党政権は次々と
下野し、自由選挙による新政権が成立した。この一連の
東欧革命に対しても、ゴルバチョフは早急な
東西ドイツ統一と、それに伴う
北大西洋条約機構(NATO)の拡大を警戒したのみで、
ハンガリー動乱や
プラハの春(チェコ事件)の時のように、武力による民主化運動の鎮圧という立場を取らなかった。これは、
中華人民共和国で1989年に発生した
天安門事件が国際的な非難を浴びたことから、
西側諸国からの外圧を恐れて、強硬な措置を取れなかったと考えられる。
ソ連の崩壊
こうした東欧の民主化革命はソ連に対しても
連邦制の動揺という形で跳ね返ってくることとなった。
エストニア、
ラトビア、
リトアニアの
バルト三国の独立要求である。こうした連邦内の動揺に対して、ゴルバチョフはソ連の国内改革によって事態を収拾しようと試み、
1990年連邦に対しての強大な
権力を与えた
大統領ポストを創設し、自らソビエト連邦初代大統領(結果的に最初で最後の大統領)に就任した。
バルト三国の独立については、東欧諸国とは違いソ連軍を投入し武力で鎮圧する立場を取った。同時にゴルバチョフがこれらの国に入って市民と対話しようと試みるも、ソ連軍の介入によって逆に独立感情が高揚。結局リトアニアが1991年3月、エストニアとラトビアは8月に独立宣言を行い、従来の15共和国による連邦体制は崩壊した。
1991年
8月19日、守旧派の党官僚による
クーデター(ソ連8月クーデター)の失敗は、ソビエト連邦とソ連共産党の崩壊を決定的なものにした。
クリミアでの
軟禁を解かれたゴルバチョフは直ちにソ連共産党の活動停止を指示した。ここに、
1898年に創設され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党はその歴史に幕を閉じた。またゴルバチョフの求心力は決定的に失落、かわって反クーデター運動をリードした、
ボリス・エリツィンが新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。また、
ウクライナもソ連邦からの離脱を国民投票で決めており、
12月8日に急遽行われたロシア、
白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議において
ベロヴェーシ合意が宣言され、3カ国のソ連邦の離脱とEUと同レベルの国家の共同体の創設が確認された。その後ロシア共和国をはじめとした12共和国によってソ連に変わる新しい枠組みとして
独立国家共同体(CIS)が創設されたことで、ソ連はその存在意義を完全に喪失した。こうした中で
12月25日、ゴルバチョフはソ連邦大統領辞任を決意し、辞任と同時に
クレムリンに掲げられていた
赤旗(
ソビエト連邦の国旗)も降ろされることとなった。その直後に、
モスクワでは市民によってレーニン像が次々と破壊されていった。これはソ連崩壊を象徴する場面の1つとなっている。
ソ連邦崩壊の影響
アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた二大パワーの一つ・ソ連の消滅によって、アメリカ合衆国は事実上唯一の
超大国となった。
ソ連崩壊のその後
全体主義国家とも呼ばれたソ連であったが崩壊後は、国民からソ連時代を懐かしむ声が上がったと言われている。最終的には破綻をきたしたものの、
宇宙開発や
軍事面においてアメリカと肩を並べる大国に成長していた「偉大で強い祖国」であったソ連時代は、確かに国民は監視社会で窮屈だったが、一方で社会保障制度も整備され、日常品も質は悪いが安い値段に抑えられるなど、
収容所(
ラーゲリ)で
強制労働に従事させられていた
政治犯や思想犯を除いた一般の人間にとっては、最低限の生活も保障されていたのである。
ソ連崩壊後の
ロシアでは
資本主義の急速な進行により、
新興財閥など一部の富裕層以外は厳しい生活を強いられており半ば外国資本に旧ソ連時代の富を強奪されていると不満を感じる国民の間では、急速に
愛国主義・
民族主義が高まりつつある。
また、2000年代に入り、豊富な天然資源により国力が急速に回復し、再び
超大国としての地位を手に入れつつある。
ソ連崩壊後に出現した
政権は、いずれも
市場経済化を標榜した。ただし市場経済への移行は一朝一夕には進まず、旧ソ連諸国家を含めた東欧では1990年代を通して経済状況が進展しなかったことから、
モルドバなどにおいて、東欧革命によって一旦は退席した旧共産党系政権が政権の座に復帰する事態もしばしば現れた。
またCIS諸国の中では、ウクライナでは
ソ連型社会主義への回帰をはっきり謳うウクライナ共産党が一定の勢力を維持している一方で、2004年大統領に就任した
ヴィクトル・ユシチェンコは将来的なEU入りを掲げている。しかし、その後の選挙で親ロシア派政党が政権を執るなど、現在も政治的混乱が続いている。
宗教の復活
]]
ソ連崩壊による最も顕著な変化の一つとして
宗教の復活も挙げられる。
人的弾圧・被害も甚大なものであり、1921年から1923年にかけて、
主教28人、妻帯
司祭2691人、
修道士1962人、
修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある。
日本正教会の京都主教を務めていたことのある
ペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされたうえで銃殺されるという特異な最期を遂げたことで知られている。
こうした弾圧は長きに渡って続いたが、ペレストロイカ時代からかなり緩和された。ソ連崩壊前の1988年に、
ウラジーミル1世の
988年の
洗礼を記念する「ロシア正教千年祭」をロシア正教会が大々的なイベントを伴って祝う事が許可されたのはその一環であった。
ソ連崩壊後は弾圧によって衰えた教勢が一気に回復し、ロシア正教会は復興を遂げた。復興したのはロシア正教会・
グルジア正教会といった各地の正教会のみならず、イスラームや
東方典礼カトリック教会も同様である。救世主ハリストス大聖堂は再建され、また
カザン・クレムリンでも正教会の大聖堂とイスラームのモスクも両方再建され、こうした宗教復興を印象付ける光景を現出することとなった。
脚注
関連項目