生涯
ジャニス・ジョプリンは
テキサス州ポート・アーサーに生まれた。父セス・ジョプリンは
テキサコに勤める労働者で、家族は両親とマイケル、ローラの三人兄妹であった。ジョプリンは小さな頃から
ベッシー・スミスや
オデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどの
ブルースを聞いて育つ一方、地元の
聖歌隊に参加している。
1960年にポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し
テキサス大学オースティン校に入学した。高校では他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒に
レッドベリーのレコードを聞かされたのを契機にブルースや
フォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の姉妹が著わした手記『Love, Janis』には彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。
ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー
一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、
1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心とした
ヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女はビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、
1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表した。売れ行きは不調でレコードは早々に倉庫にしまい込まれる事になった。
しかし、このバンドは
モントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンはビッグ・ママ・ソーントンの
Ball and Chain を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。
D・A・ペネベイカー撮影の
ドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れた
キャス・エリオットが”Wow, that's really heavy”と呟く姿が撮影されている。
1968年の
アルバム『
Cheap Thrills』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風に
カバーした
Summertime や、前述の
Ball and Chain 等、迫力のある歌が多く収録されている。
ウッドストック
ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。
ブラス・セクションを加えた、より
ソウル・ミュージックを意識した編成だ。
1969年に『''I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama!
』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドも直に解散した。この後ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年発表のアルバム『Pearl』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからはクリス・クリストファーソンのカバー曲 Me and Bobby McGee
と、ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された Mercedes-Benz'' がヒットを記録している。
彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは
1970年6月と
8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で彼女は高校の
同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラに押さえられている。この一件はジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。
1970年
10月4日、アルバム『
Pearl』の録音のため滞在していた
ロサンゼルスのホテルで死亡されているのが発見された。。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。録音中だったアルバムの収録曲のうち、
Mercedes-Benz は
アカペラの仮録音、そして
Buried Alive in Blues は本人の歌が録音できないまま演奏だけが収録されている。遺灰は
カリフォルニアで海へ撒かれた。
サンプル楽曲
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Try (Just a Little Bit Harder) - アルバム『I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!』より
関連
外部リンク