シカゴ・パイル1号(Chicago Pile 1、CP-1)とは、歴史上初めて
臨界に達した最初の
原子炉の名称である。
背景
1942年
5月に原子炉の設計が開始され、同年
11月にはシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド(Stagg Field)の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設が開始された。
1942年12月2日午前8:30より実験が始まり、同日午後3時25分(シカゴ時間)、科学者の一人ジョージ・ウェイル(George Weil)の操作により制御棒が引き抜かれ、原子炉は
臨界に達した。この様子を見守っていた科学者のバーナード・フェルドは「制御棒を引き抜くとルルルルルルルル…と音がして計器の針が振り切れてしまった」と回想している。すぐさま
ワシントンの計画本部のジェームス・B・コナント(James B. Conant)へ暗号電が発せられた。曰く「
イタリア人の航海士が
新大陸へ達した。現地人は友好的だった(The Italian navigator has landed in the new world. The natives were very friendly.)。」
構造
CP-1はその名前の通り
黒鉛ブロックを積み上げた(pile)小型原子炉で、形式としては黒鉛減速空気冷却炉である。初期の原子炉は全て
黒鉛炉だったこともあって、パイルと言う言葉は原子炉と同義となっていた。炉心を構成する黒鉛ブロックは木枠で支えられ手積みで組み上げられた。
使用された黒鉛ブロックは350トン、全体の大きさは直径7.5m、高さ6mで、小さな二階建ての家ほどだった。核燃料として35トンの
ウランを用い、三本の
カドミウム製制御棒を持っていた。うち一本は緊急停止用で、上からロープで吊るされており、異常があればロープを斧で断ち切って炉心へ落す仕組みだった。またカドミウム塩溶液が準備されており、制御棒の故障時には炉心内へ流し込むことになっていた。
研究炉であるため発電系統は備えていない。と言うより、
原子力発電のアイデアが検討されるのは戦後になってからである。
発展
プルトニウム生産炉は黒鉛減速軽水冷却原子炉で
天然ウランを使用し、プルトニウム生産専用で発電系は備えていない。
コロンビア川は原子炉からの温排水で常時湯気を立てるようになったといわれている。原子炉で燃焼した天然ウラン燃料はプルトニウム抽出工場でウラン238から転換したプルトニウムを抽出、精製された。
風船爆弾騒動
そしていよいよフル操業に入ろうとしていた
1945年3月10日午後3時23分、外部電源が喪失、三基の原子炉の自動安全装置が制御棒を緊急挿入し、原子炉は自動停止した。点検後、運転が再開されたのは三日後である。外部電源喪失の原因は
風船爆弾が送電線を切断したためだった。
原子爆弾
戦後と余波
戦争終了後もハンフォードでは原子炉の建設が進められ、最終的に九基のプルトニウム生産炉が建設された。これら生産炉はおおむね二十年程度使用されて順次閉鎖されたが、
1997年9月23日に
米国と
ロシアの間でプルトニウム生産炉協定(PPRA:Plutonium Production Reactor Agreement)が結ばれたことにより、ハンフォードで最後まで稼動していたN炉が
1998年9月に閉鎖され、ハンフォードの半世紀に及ぶプルトニウム生産が終了した。
なお、CP-1他は最初期の原子力施設であり
放射能に対する配慮が欠けていた。そのため、原子炉に近接するコロンビア川では長期間に渡る
放射能汚染が深刻な問題となっている。