国名
「コソボ」という地名は、
クロウタドリの
ブルガリア語での名前「コス」(ブルガリア語:
Кос /
Kos)に由来している。アルバニア語では
Kosovaもしくは
Kosovë、セルビア語の
キリル文字表記では
Косово、
ラテン文字表記では
Kosovoである。
英語では
Republic of Kosovo。
この地域の西部はメトヒア(セルビア語:
Метохија / Metohija、メトヒヤ)と呼ばれることから、この地域の名前は「コソボとメトヒア」(セルビア語:
Косово и Метохија /
Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)という呼び方が一般的だった。
2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、
アルバニア語で
Republika e Kosovës、
セルビア語で
Република Косово /
Republika Kosovoである。日本語表記は
コソボ共和国、通称
コソボである。
コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿った
コソバないし
コソヴァという表記はあまり使用されていない。
他方、コソボの独立を承認していない国々は、コソボをセルビアの一部と見なしている。セルビア立場は、コソボを自国の一部と規定しており、
コソボ・メトヒヤ自治州(
セルビア語:
Аутономна Покрајина Косово и Метохија /
Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼ばれる。
歴史
6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代
トラキア人が住んでいたであろうという説が、学者たちの間で推測されている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニーと呼ばれた。したがって、コソボは当時ダルダニヤという地名で知られていた。
12-13世紀、
セルビア人の指導者だった
ステファン・ネマニャはコソボに
セルビアを建国した。ブルガリア人が指導していた地域は、セルビア誕生の地域となった。それ以来セルビア人の民族意識は、コソボと深いつながりを持ちつづけている。
オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「
コソボの戦い」へ至った。コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の
スルターン(君主)
ムラト1世を殺すことに成功した。殺された君主の息子
バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新しい指導者となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。
セルビア人はコソボの戦いで
ムラト1世を戦死させたが結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯
ラザルもすべて殺されてしまった。それ以来
バルカン半島の国々は皆オスマン帝国に征服され、5世紀間もの間自分たちの国を持つことができなかった。しかし、セルビア人の心にコソボの戦いの記憶はずっと残った。この戦いで、セルビア人が誕生したとよく言われる。またコソボを失うということは、自分の国を失うということにつながる、という意識もここに端を発する。
現在コソボの最も多くの人口を占める
アルバニア人は、
1767年からコソボに住み始めるようになった。それはセルビア人とブルガリア人が、オスマン帝国にコソボから追放されたことと直接関係している。
独立運動
端緒
1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。80年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム教原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を、「
コソボ解放軍」(アルバニア語名:
UÇK、英語名KLA)と改名した。
セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州であったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、
コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。
1995年にセルビアの一部だったコソボの数か所で、警察官やセルビア人が殺される事件が起きた。これが、「コソボ解放軍」の実力行動の始まりだった。1997年から1999年の間に「コソボ解放軍」のメンバー数は大幅に増加し、ユーゴスラビアの警察官やセルビア人の一般国民を攻撃、殺害したり、セルビア人女性を強姦したりした。また、ドイツの新聞「Berliner Zeitung」(1999年3月4日付け)が入手した秘密文書によると、「コソボ解放軍」が資金を集めるためにアフガニスタン産のヘロインなどの違法麻薬の販売を行った。コソボ地方の4分の1の地域では、
ユーゴスラビア政府が統治できず、「コソボ解放軍」が完全に支配するようになった。その結果、コソボのセルビア住民がそれらの地域から逃げ始めた。アルバニア人による、コソボに住んでいたセルビア人を殺害したり、強制移送したり、恐怖などを利用して国外脱出を余儀なくしたことは「
民族浄化」であると考えられる。更に、コソボ解放軍などによる迫害はセルビア人以外の少数民族に対しても及び、
クロアチア人や
アッシュカリー、
ロマなどが迫害の対象となった。
「コソボ解放軍」による様々な犯罪が最も悪化したのは、1998年の夏だった。そのとき、彼らはオラホヴァツの町を攻撃しようとした。ユーゴスラビア政府はこの状況にどの様に対応すべきかを長く思案していたが、このコソボ解放軍の挑発に対し何らかの対策をとるべきだと判断した。
スロボダン・ミロシェヴィッチ政権は英米とその同盟国とは関係が悪く、もしユーゴスラビア政府が「コソボ解放軍」を攻撃すれば英米にアルバニア人を迫害していると非難される危険性があった。スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は英米とその同盟国と衝突するか、それとも国民と国土の一体性を守るかというジレンマに陥っていたが、最終的には後者を選択した。そして、ユーゴスラビア軍は「コソボ解放軍」への攻撃を強化した。
紛争
コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。これに対して
イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し懐疑的な意見が出されるようになり、
デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の
90年代後半に入ると実力をもってセルビアから独立することを主張する
コソボ解放軍(UÇK,
英語名: KLA)が台頭するようになった。一方隣国のアルバニアでは
1997年に全国的な規模で拡大した
ネズミ講が破綻して社会的な混乱に陥った。このような情勢でコソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を撒き、戻ってくるときにはアルバニアで流失した武器やアルバニアでリクルートした兵士を連れて帰ってくることができた。コソボ解放軍の指導者の一人で後に首相となった
ハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を確保する活動をしていた。翌
1998年になるとセルビアとしてもコソボの
ゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これが
コソボ紛争の始まりである。
戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する
マケドニア共和国や
アルバニア、
モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。
国連や
EUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。
1999年3月からは、
NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な
空爆を実施するに至った。この空爆は約3ヶ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始、翌年までに全ての連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である
国連コソボ暫定行政支援団(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)が置かれ、軍事部門として
NATO主体の国際部隊(
KFOR)が駐留を開始した。それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、セルビア政府による実効支配は及ばなくなった。
しかし、セルビア側が撤退しUNMIKの管理下に入った後も、
コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、
人権が守られているとはいえない。加えて、多くの
セルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している。
地位問題
1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は隣国の
アルバニアしか存在しない。このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっている。一方で
1999年のコソボ紛争以降コソボがセルビアの実効支配から完全に脱しているのも事実である。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題である。
コソボの独立
この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、17日未明から
ベオグラードや
ノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時の
EU議長国である
スロベニア系商店への投石騒動が起きている。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている。
国家承認のプロセスについては、翌18日に
アメリカ合衆国が承認を公表し、ヨーロッパの安保理常任理事国である
イギリス、
フランスも翌日に承認している。この他中欧地域の主導権を握る
ドイツも2月20日に承認した。一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱える
スペインや
キプロスなど独立承認に慎重な姿勢を示している国もある。このためEUによる機関承認は見送られている。
独立宣言が打ち出された当初、即座に承認しなかった国々においても承認が広まりつつある。
日本は2008年
3月18日に承認
外務省: コソボ共和国の承認について 2008年3月18日 2008年3月19日閲覧{{cite web |
url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080318/plc0803181157011-n1.htm |
title = 政府、コソボを国家承認 高村外相「地域安定を期待」 |
work = MSN産経ニュース |
accessdate=2008-03-18
}}
その一方で、
セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、
ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、
国際連合の
安全保障理事会での承認は困難となっている。またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。
地方行政区画
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コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ Rajoni / オクルグ Okrug)に分けられている。
1999年にUNMIKの保護下に入った後の
2000年にUNMIKによって、セルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ Komuna / オプシュティナ
Opština)が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。
経済
政治
国連安保理決議1244により
国連コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による
暫定自治諸機構 (Provisional Institutions of Self Gouvernment: PISG) が
2001年から置かれている。
独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「
国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。
住民
- 民族構成
-
アルバニア人 88%
-
セルビア人 7%
-
ブルガリア人 2%
- その他ボシュニャク人、ロマ、トルコ人など。
元々コソボのアルバニア人の比率は高かったが、
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終了後
セルビアがコソボの分離運動を抑えるために、
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で
難民となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。結局
コソボ紛争によりコソボ内のセルビア人は、約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。現在、セルビア人は
ミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛び地状に点在している。コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、
2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。
宗教
脚注
関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
- その他
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