人物
「
東欧のマラドーナ」と呼ばれたルーマニア史上最高の選手にして1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人。
ゲームメーカーとして中盤に君臨し、左足から放たれるパス、ドリブルによって多くのハイライトシーンを演出した。またゲームメイクだけでなく自ら得点を狙う事が出来る、言わば典型的な10番タイプの選手である。但し、短気な性格からよくカードをもらう事もあり、天才肌な選手といえる。
ルーマニア代表の中心選手として1983年から2000年まで実に17年間に渡り在籍し、3度のワールドカップ出場に導くなど同国の躍進に貢献。代表通算35得点はルーマニア歴代最多記録である。
略歴
選手として
世界的に有名になるきっかけとなったのが、1994年
ワールドカップでのルーマニアの躍進であった。ハジは背番号10、キャプテンとしてルーマニア攻撃陣の核となり、1次リーグ第1戦、
バルデラマ、
アスプリージャらを擁し優勝候補の一角と目された
コロンビアを3-1で粉砕。ハジは2点目のロングシュート(相手GKのポジショニングミスを突いた左サイドからの30mのロングシュート)を始めルーマニアの3点全てに絡む活躍をみせた。その後も決勝トーナメント1回戦で優勝候補の
アルゼンチンを3-2で下す等、ハジを中心とした電光石火のカウンターアタックは人々に強い印象を与えた。酷暑の影響による消極的な試合が多かった中で大会を盛り上げる存在であった。
1996年当時、トルコサッカー界はヨーロッパの中堅国家の一つであり、ワールドカップ出場は強豪国の厚い壁に阻まれ適わず、クラブシーンにおいても
チャンピオンズリーグでは大会本戦出場はおろか予備予選を突破する事すらもままならない状況であった。そんな中、彼はクラブ関係者からの強い要請とバルサでの出場機会激減を期に移籍してくる。彼はチームのキャプテンとしてだけでなく「サッカー選手としての心得」「プロとしての心得」をガラダサライの選手たちに植え付け、後のトルコサッカー界隆盛の礎を築く。そして2000年の
UEFAカップ優勝を成し遂げ、ガラタサライの名とトルコサッカーの名を国際的な物へと押し上げた。
指導者として
2001年に現役引退後は監督としてルーマニア代表などを指揮したが、現役時の名声にはほど遠い結果しか残せていない。2007年には古巣
ステアウア・ブカレストの監督に就任したが、クラブ役員からのプレッシャーに耐えかね僅か2ヶ月で辞任している。
所属クラブ
- 1982年-1983年 - ファルル・コンスタンツァ(ルーマニア)18試合17得点
- 1983年-1986年 - スポルトゥル・ストゥデンツェスク(ルーマニア)108試合58得点
- 1986年-1990年 - ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)97試合76得点
- 1990年-1992年 - レアル・マドリード(スペイン)64試合19得点
- 1992年-1994年 - ブレシア・カルチョ(イタリア)60試合14得点
- 1994年-1996年 - FCバルセロナ(スペイン)36試合7得点
- 1996年-2001年 - ガラタサライ(トルコ) 167試合78得点
指導歴
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)