歴史
(
ルーマニア正教会)]]
クルージュ=ナポカへの人間の居住は先史時代にさかのぼる。
2世紀初め
ローマ帝国が
ダキアを征服すると、
トラヤヌス帝はローマ軍の宿営地をおき、
ナポカ(Napoca)と命名した。ナポカには軍人以外も多く定住するようになり、
ハドリアヌス帝のとき、
自由都市(municipium)に格上げされ、
ムニキピウム・アエリウム・ハドリアヌム・ナポカと命名された。のちにおそらく
マルクス・アウレリウス帝のとき、植民市に格上げされた。ポロリッセンシス属州の首都とされ、行政の中心となった。しかし民族大移動の時期に征服され、荒廃した。
ハンガリー王
イシュトヴァーン5世は、
1272年、トランシルヴァニアにいた
ザクセン人に対し、かつてのローマ都市ナポカの近くに植民するよう勧めた。この入植地は
ドイツ語でクラウゼンブルク
Klausenburg と命名された(クラウゼは
峠を意味する古い語で「峠の城」の意)。
ルーマニア語のクルージュは「クラウゼ」に由来するとも、さらに地名自体
ラテン語の 'clusum'(閉じた)に由来するとも、
スラブ語のクリューチ(鍵) ključ(ハンガリー語 kulucs)に対応するとも推測されている。clusum 説はこの街が丘に囲まれていることに関係あると考えられている。またこの街に住んだハンガリー人は街をコロジュヴァール
Kolozsvár と呼んだ。
1790年から
1848年にかけて、また
1861年から
1867年にかけて、クルージュはトランシルヴァニア大公国の首都となった。またトランシルヴァニア議会がおかれた。
1830年初頭、クルージュはトランシルヴァニアにおけるハンガリー人の民族運動の中心となった。1848年の革命において、クルージュは12月に
ポーランド人のユゼフ・べム将軍に率いられたハンガリー人に占拠された。
1950年まで、ハンガリー人はクルージュの住民のうち最大の人数を占めていた。1966年の国勢調査によると、185,663人の住民がおり、56%がルーマニア人、41%がハンガリー人だった。1974年に市は改称され、現在のクルージュ=ナポカとなった。12年市長を務めたジョルジ・フナールは反ハンガリー人感情を高めたことで注目される。クルージュ=ナポカにおけるハンガリー人の文化遺産を目立たなくするために、数多くの公共美術事業が企図された。
1994年と
2000年に、クルージュ=ナポカは、中央ヨーロッパ情報オリンピック(Central European Olympiad in Informatics、略称CEOI、1994年より開催)の開催地となった。
経済と交通
ビール醸造、木製家具製造、乳製品加工、毛織物生産が行われる。近年は通信情報産業も盛んである。
鉄道・道路の結節点として、交通の要衝である。またクルージュ=ナポカ国際空港があり、国内便・国際便の発着がある。ハンガリー・イタリア・ドイツ・オーストリアへの定期便のほか、夏には主に地中海地方へのチャーター便が運行される。
教育
ヴィクトル・バベシュと
ボーヤイ・ヤーノシュの名を冠したルーマニア最大の大学であるバベシュ=ボーヤイ大学を初め、多数の国立・私立の
大学が集中する大学都市である。
ハンガリー時代のコロジュヴァール大学は
セゲドに移転した。
スポーツ
姉妹都市
外部リンク
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