ギリシャ独立戦争(ギリシャ語:
Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語:
The Greek War of Independence)は
オスマン帝国からの
ギリシャの独立を巡り争われた戦争。1830年の
ロンドン議定書によって列強により独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約によりギリシャの独立は承認された。ギリシャでは3月25日を
独立記念日としている。
反乱のはじまり
オスマン帝国は14世紀から15世紀にかけて
東ローマ帝国を征服し、
イオニア諸島を除いたギリシャ全土をその支配下においていた。18世紀に入るとヨーロッパにおいて
ナショナリズムが高揚し、同時にオスマン帝国の勢力に翳りが目立ち始めた。
1821年3月6日にイプシランディスに率いられた一隊が
ルーマニア国境の
プルト川を越え蜂起した。同月23日には
ペロポネソス半島南部の都市カラマータを反乱軍が掌握した他、
パトラ、
マケドニア、
クレタ島、
キプロスなどでも反乱の火の手があがった。オスマン帝国の当局は反乱を全く予期しておらず、ペロポネソス半島を中心とした地域が反乱軍の支配下に入った。
オスマン帝国の反撃とエジプトの参戦
オスマン帝国は直ちに反乱の鎮圧を目指したが、反乱軍とオスマン帝国との争いは決着がつかず、1825年になり、スルタン・
マフムト2世は
ムハンマド・アリーにより統治されていたエジプトに助けを求めた。アリーは
シリア地方の割譲を条件に参戦し、近代化された
海軍を用いて
エーゲ海の諸島を直ちに占領した。
ヨーロッパ諸国の対応
ヨーロッパではギリシャの反乱に対する同情が広がっていた。ギリシャは西ヨーロッパ文明の源であり、当時盛んだったロマン主義の観点からも、キリスト教諸国が一致してギリシャ独立支援にあたることが支持されていた。
バイロンに代表されるヨーロッパの義勇軍が組織され、ギリシャに赴いていた。
このような世論に対し、オスマン帝国の過度の弱体化を好まないヨーロッパ諸国の政府間では、ギリシャの自治国化を軸に問題を解決しようとしていた。示威行為のために英仏露は艦隊を派遣している。1827年10月20日、ペロポネソス半島西南にあるナヴァリノ湾に停泊していた英仏露合同艦隊とエジプト・オスマン帝国艦隊との間に偶発的な争いが生じた(
ナヴァリノの海戦)。この海戦において、数的には劣勢であった英仏露合同艦隊が、オスマン帝国艦隊を壊滅させることとなった。これはギリシャ独立戦争の転換点となったが、このような海戦を予期していなかった英国政府によって艦隊司令官は解任された。
1827年にはフランス人の将軍に指揮された1万の反乱軍がペロポネソス半島においてオスマン帝国の軍隊を打ち破った。ギリシャ軍はペロポネソス半島を根拠地にして
アテネ、
テーベなどギリシャ本土を占領した。
ヨーロッパでは当時ポーランド独立革命(失敗)、
ベルギー独立革命、
フランス7月革命など、各地で民族独立運動が繰り広げられていた
ウィーン体制の動揺期であり、その評価は
欧州でも割れた。欧州諸国民の世論は概ね独立の支持であり、しかし一方で体制は反動期であった。
結局、ヨーロッパ列強はギリシャの独立を支持することに至り、ウィーン体制に亀裂が走ったのである。しかもこれは、
バルカン半島の
イスラム教徒の支配を覆する土台となったのである。
独立
この
バルカン半島のオスマン帝国領の処遇を扱った条文の中で、ギリシャについては自治国としての独立が保証されたが、ギリシャにおけるロシアの影響力が増大することを懸念したイギリス・フランスは、その影響力を弱めるためにもギリシャの完全独立を主張した。そのため、1832年の
ロンドン議定書によって完全独立が認められた。
しかし、英・仏・露の三国は、互いに牽制しつつもギリシャへの影響力を維持したいと考え、1832年6月11日に開かれた会議でギリシャを
君主国とすることが正式に決定され、同年7月にオスマン帝国およびヨーロッパ
列強の間で調印されたコンスタンティノープル条約で、ギリシャの独立が正式に認められた。
関連項目
きりしやとくりつせんそう
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