国名
英語でオスマン帝国を
Ottoman Turks,
Turkish Empire と呼んだことから、かつては「
オスマントルコ」、「
トルコ帝国」、「
オスマントルコ帝国」、「
オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在は
オスマン帝国あるいは単に
オスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、
君主(
パーディシャー、
スルタン)の出自は
トルコ系で宮廷の言語も
オスマン語と呼ばれる
ペルシア語や
アラビア語の語彙を多く取り込んだ
トルコ語ではあったが、支配階層には
民族・
宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の
国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる
Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる
Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
歴史
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。
建国と拡大の時代
13世紀末に、
ビザンツ帝国と
ルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長
オスマン1世が、率いる軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、
遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集した
ムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(
ジハードに従事する戦士)たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺の
キリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する
オスマン君侯国 (Osmanlı Beyliği) を築き上げた。
)]]
1326年頃オスマンの後を継いだ子の
オルハンは、即位と同じ頃にビザンツ帝国の地方都市プロウサ(現在の
ブルサ)を占領し、さらに
マルマラ海を隔てて
ヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。
オスマン帝国の最盛期
またこれに前後して
ハプスブルク家と対立していた
フランスの
フランソワ1世と同盟し、
1529年にはハプスブルク家の
神聖ローマ皇帝カール5世の都
ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した。
第一次ウィーン包囲と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、
1538年プレヴェザの海戦では、
スペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。そしてスレイマンは
インドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊は
マラッカ海峡まで行ったという。
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
また、軍事構造の転換によって
火砲で武装した
歩兵であるイェニチェリを核とする
常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の
騎士である
スィパーヒー層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な
官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、
カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での
治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした
19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への
内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、
不平等条約として重くのしかかることになった。
帝国支配の混乱と衰退
スレイマンの死から5年後の
1571年、
レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。もっとも、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、
1573年には
キプロス島、翌年には
チュニスを獲得したほどである。
しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。
1579年、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相
ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに
17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、
16世紀末頃から
新大陸産の
銀の流入による物価の高騰(
価格革命)や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。
そのような情勢の下で
1645年に起こった
ヴェネツィア共和国との戦争は
1656年、ヴェネツィア艦隊の
海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子
キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いた
キョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国は
クレタ島やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
やがて
1739年のベオグラード条約でベオグラードを奪還し、
1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいたが、しかし
産業革命が波及して急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、
スレイマン1世時にヨーロッパ諸国に与えた
カピチュレーションを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。
近代化をめざす「瀕死の病人」
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、
ギリシャ北部から
アルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な
中央集権体制は無実化した。さらに
1798年の
ナポレオン・ボナパルトの
エジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握した
ムハンマド・アリーは、
1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
)]]
一方、
フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族の
ナショナリズムを呼び覚まし、
ギリシャ独立戦争(
1821年 -
1829年)によって
ギリシャ王国が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、
19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を
東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、
20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。
オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。
1808年に即位した
マフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに
1839年、
アブデュルメジト1世は、改革派官僚
ムスタファ・レシト・パシャの起草した
ギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る
タンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。
1853年にはロシアとの間で
クリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、
1856年に
改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(
シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代
教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の
借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために
農業の
モノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、
1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、
1876年、大宰相
ミドハト・パシャのもとで「アジア最初の成文憲法」と言われる
オスマン帝国憲法(通称
ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の
法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムの
オスマン臣民としての完全な平等を定めた。
だが憲法発布から間もない
1878年に、オスマン帝国はロシアとの
露土戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望む
アブデュルハミト2世は、ロシアとは
サン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で
民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の
民主主義、
民族主義の拡大を準備した。
世界大戦から滅亡への道
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは
1889年に結成された「
統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする
青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。
1908年、サロニカ(現在の
テッサロニキ)の統一派を中心とする
マケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(
青年トルコ革命)。彼らは
1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、
1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、
エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝
メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍が
イズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄
ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、
アンカラに
トルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成した。
一方連合国は、
1920年、講和条約として
セーヴル条約をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約(
ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。
1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機に
スルタンと
カリフの職権分離と、
スルタン制の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世は
マルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(
トルコ革命)。
翌
1923年、大国民議会は
共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家
トルコ共和国に生まれ変わった。トルコ共和国は
1924年、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に消滅した。
制度
の
三重冠を意識したものだと言われている。]]
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
20世紀前半には、ヨーロッパにおけるビザンツ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制とビザンツ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいてビザンツ帝国滅亡から間もない時代には
オスマン帝国の君主がルーム(
ローマ帝国)の
カイセル(
皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国が
コンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの
皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はビザンツ帝国すなわち
東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、君主を頂点に君主専制・
中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられたティマール制による騎兵
スィパーヒーと、中央の
カプクル(「門の奴隷」の意)常備軍団からなり、カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する
デヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍
イェニチェリは、火器を扱うことから
軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な
常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
帝国の領土は直轄州、独立採算州、
属国からなる。属国(
クリミア、
ワラキア、
モルダヴィア、
トランシルヴァニア、
ヒジャーズなど)は
君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(
エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。直轄州は州(大軍管区)、県(小軍管区)、郡(法官管区)に分かれ、郡ごとにカーディーが任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ(県知事)、ベイレルベイ(州知事)と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。
中央では、君主を頂点とし、大宰相(サドラザム)以下の宰相(ヴェズィール)がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル)、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。
17世紀に君主が政治の表舞台から退くと、大宰相が君主の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(
ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうち
エリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、
メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、
宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に
西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた
閣議の長とされて事実上の
内閣を率いる
首相となった。
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、
イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
文化
陶芸は、16〜17世紀の
イズニクで、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心は
キュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。
文学は、
トルコ語に
アラビア語・
ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させた
オスマン語が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(
トルコ文学の記事も参照)。
美術の分野では、
イスラム世界から受け継いだ
アラビア文字の書道が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れた
ミニアチュール(
細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて
遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。
オスマン帝国を題材にした文学
オスマン帝国史を題材にとった歴史文学には、トルコ人の作家
オルハン・パムクの『わたしの名は紅』藤原書店がある。パムクはこの小説によって、2006年
ノーベル文学賞を受賞した。
日本の小説では
塩野七生の『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』(いずれも新潮文庫)などがある。
オスマン帝国を題材にしたゲーム
- Ottomans The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571(Strategy & Tactics 222号)Decision Games 、2004年。(英語)※15〜16世紀のオットーマン帝国の興隆を描いたシュミレーションゲームです。<ref>En homemage a SPI (著作権者の許可を得て邦訳ルール無料公開)</ref>
- Joseph Miranda,"Ottoman Twilight World War I Middle East"Strategy & TacticsNo.241 ,Decision Games ※1914−18年の第1次世界大戦における、トルコを中心とした中東地域のキャンペーンゲームです。
脚注
関連項目
参考文献
- 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年。
- 新井政美『オスマン vs. ヨーロッパ』(講談社選書メチエ)講談社、2002年。
- 鈴木菫『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書)講談社、1992年。
- 永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年。
- 永田雄三(編)『西アジア史II イラン・トルコ』(新版世界各国史9)山川出版社、2002年。
- 林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット)山川出版社、1997年。
- テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(「知の再発見」双書)創元社、1996年。
- ロベール・マントラン『トルコ史』(文庫クセジュ)白水社、1982年。
- 三橋冨治男『トルコの歴史』(紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年。
- アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』白須英子訳、中央公論社 1998
- スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1969年。
外部リンク
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