国名
正式名称は、
ウクライナ語で
Українаである。発音は、
日本語には「
ї」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。
ラテン文字転写としては
Ukrajinaなどが用いられる。
かつて実質的な公用語として用いられた
ロシア語では
Украинаと表記し、
ウクライーナのように発音する。
日本語の表記は、ウクライナ。稀にユクライナとも書かれたことがあった。漢字表記をする場合は烏克蘭。宇克蘭と表記されることもある。
公式の
英語表記は
Ukraine(ユークレイン、ユークライン)である。この他、各国語の表記のうち
スペイン語 Ucrania、
ポルトガル語 Ucrânia、
ギリシア語 Ουκρανία などでは、/n/ が前進している。このため、日本語発音で「ウクライナ」と言うと、ウクライナ人には「ウクラニア」と言っていると聞き違えられることも少なくない。日本語発音の「ウクライナ」は、ウクライナ語やロシア語の「ウクライィーナ」、「ウクライーナ」という発音より、ポルトガル語等の「ウクラニア」という発音に近いようである。
小ロシア
ウクライナは、以前は「小ルーシ / 小ロシア」と称されており、この名称は現在でも一部で使用されることがある。しかし、この「小」という名称は「大ロシア」である
ロシアに比べ侮蔑されているような印象が感ぜられることから、ウクライナ人には好まれていない。ところが、本来は「小」とは文化の中心である
アテネからの距離が「小さい」ということを表しているのであり、むしろ「大ロシア」の方が「大田舎のロシア」を意味しているのである。
意味
現在の国名であり
ウクライナ人の好む方の名称である「ウクライナ」の語源は、「国」・「公国」といった意味であるという説と、「地方」・「縁(へり)」・「僻地」といった意味であるという説があるが、後者はロシアから見た感覚的なものである。
「
Україна(
ウクライィーナ) /
Украина(
ウクライーナ)」という語に関連する単語の中でもっとも基本的なもの(一音節の単語なので)とされ、現在でも使用されている「
край(
クラーイ)」という単語にも「国」と「地方」、「縁」などいくつもの意味がある。これから派生したウクライナ語の「
країна(
クライィーナ)」という単語は「国」いう意味であるが、一方、ロシア語の「
окраина(
アクラーイナ)」という単語は「場末」、「町の端っこ」、「はずれ」という意味であるということからも、ロシア側のウクライナへの感覚が理解できる。
歴史上では「ウクライナ」と呼ばれる地域は南方のルーシ(キエフ大公の領土を継承するペレヤスラヴ公国と西の隣国と交流が盛んであった
ハールィチ・ヴォルィーニ大公国)を指す用語である。その用語は「国」・「公国」という意味があったらしく、そのような意味は中世後期まで受け継がれている(「バルカラバ年代記」、「ペリソプニチア福音」など)。
また、「ウクライナ」と名乗る国家が現れたのは
20世紀以降であり、実際にウクライナは一地方名(どこの国の地方であるかは別の問題であるが)であった時期が長かった。特にウクライナと呼ばれる地域が複数あった時代には、名実ともに「
Украина」という語は地方の名称であった。ウクライナはほぼキーフルーシ大公国の領域を網羅していることから、国民はキーフルーシ大公国の後継者と考えいる。ちなみにルーシをギリシャ語読みするとロシアとなり、モスクワ公国がその後このロシアを名乗るようになり、ウクライナと名乗らざるをえないというのも事実である。
政治的にとった場合、独立ウクライナでは「
Україна」という語はあくまで「国」という意味であるべきだが、ロシアの支配側の見解では「ロシアの一地方」であるという意味が都合よい。ロシア語の文法(
前置詞の用法)からも、ロシアが「
Украина」を「地方」という意味で扱ってきたことは明らかである。よりアカデミックな立場では、「国」か「僻地」か意見の分かれるところであり、語源に関して客観的に間違いないと考えられる結論は現在も出ていない。
地理
山岳地帯は、
クリミア半島の最南端の沿岸部と西部の
ウクライナ・カルパト山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ峰(
Говерла, Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。
気候は温暖な
大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は
地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。
歴史
概要
古代 - キエフ・ルーシ時代
9世紀頃、首都をキエフとする最初の
スラヴ人国家、
キエフ・ルーシ(キエフ大公国)が誕生した。この国家は現在のウクライナ・
ベラルーシ・
ロシアの源流だと考えられている。史料によると、現在の
スウェーデン一帯からやって来た
ヴァイキング(ヴァリャーグとも呼ばれる)たちを公(
Князь:王のこと)に据えることによって建国されたと記されている。ヴァリャーグは、もともとこの地の住民であった
ウクライナ人(当時のルーシ人)と次第に同化していき、ウクライナ史上で初めての強大な
王朝である
リューリク朝が繁栄した。
ギリシャとの繋がりが強かったキエフ・ルーシでは、
988年に
ヴォロドィーメル聖公が
キリスト教を受け入れ、ルーシ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフではキエフ大公(
Великий князь Київський)とキエフ
府主教が近隣の諸
公国を支配下に置き、
10世紀および
11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける
大国の1つとなった。
画像:Odessa numismatic museum photo 05.jpg|ヴォロドィーメル一世の銀貨。
画像:Zlatnik HQ.jpg|ヴォロドィーメル一世の紋章つきの金貨。
画像:Sviatopolk silver srebrenik.jpg|スヴャトポルク一世の銀貨。
このような情況の中、キエフ府主教は
ウラジーミルへの遷座を経てモスクワに移り、
東ローマ帝国の滅亡(
1453年)後の
1589年には
モスクワ総主教に格上げされた。キエフ府主教座が北東ルーシに動いたことに伴い、ウクライナでは14世紀にはハールィチに新たに府主教座が設置されたが、15世紀にはキエフ府主教座がウクライナの正教会の筆頭として復活した。
コサック時代 - 帝政ロシア時代
。ウクライナのコサックのシンボル、「ウクライナの守護神」とも言われる。コサックは西洋人のキリスト教徒であったが、東洋の戦術・文化を受容していた。]]
16世紀頃より、現在のウクライナ南部には
キエフ・ルーシの士族を中心とする
ウクライナ・コサックの国家が成立した。
17世紀には
キエフを再建して本拠地とするなど勢力を拡大し、
モスクワ大公国の度重なる侵攻にもかかわらず1世紀の間存続した。
1648年には、
棟梁である
ボフダン・フメリニツキーの指導するコサックと
ポーランドの間に戦争が始まった。フメリニツキーは長年のポーランド支配を断ち切ることに成功したが、数年後の
1654年にはモスクワ大公国の保護下に入る形で、ポーランドと
モスクワ大公国によって分割され、独立はまたも失われることとなった。このことは今日の
ウクライナ人にとってはロシア民族共通の敵であるポーランドを対等な連合の下に駆逐したのにも拘らずロシアに裏切られたというように受け取られ、反露感情の源泉のひとつとなっている。
画像:Wesele Kozackie.jpg|コサックの結婚式。
画像:VasilikovskiiKosakvstepi.jpg|草原でのコサック騎兵。
画像:Tabor 2.jpg|出陣中のコサック。
画像:Sergiy Vasylkivskiy- Cossack colonel.jpg|コサックの連隊長。
19世紀に入ると、ロシア帝国の抑圧政策と全ヨーロッパで流行した
民族主義の影響により、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。また、現在最初の「
ウクライナ文学」とされているイワン・コトリャレフスキーの
パロディー叙事詩「エネイーダ」もこの時期に書かれた。
ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、
ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法などさまざまなものが生み出されたが、最終的には
タラス・シェフチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。なお、
ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われており、独自の言語としては公認されていなかった。
ロシア革命期
十月革命時の最大勢力はキエフを首都とする
ウクライナ中央ラーダのウクライナ国民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの
宣戦布告を受け戦争状態に入った。
1918年1月には中央ラーダは首都を追われ
ジトームィルで体勢を立て直した。2月に
中央同盟国と
ブレスト=リトフスク条約を締結したウクライナ国民共和国は、
独・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。
4月にドイツの軍事力を背景とした
クーデターが起こされ、国号は
ウクライナ国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの
協商国への降伏により自体は一転、ウクライナ国政府は
ドィレクトーリヤ勢力に敗れ、ドィレクトーリヤはウクライナ国民共和国を復活させた。
一方、西ウクライナでは、ウクライナ国民ラーダが
リヴィウを首都とする西ウクライナ国民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。
一方のウクライナ国民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後ウクライナは全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の
南ロシア軍など
白軍(
白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援した
フランス軍や
イギリス軍、アナキストの
ネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民
アナキズムのウクライナ革命蜂起軍、
ベッサラビア方面に侵攻した
ルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどのウクライナ・ボリシェヴィキがあった。
画像:Central Rada.jpg|1917年のウクライナ中央ラーダの議会堂。
画像:Brest-litovsk-feb-9-1918c.jpg|ブレスト=リトフスク条約の締結。
画像:Pavlo Skoropadsky.jpg|
画像:Voyaky unr.jpg|休息中のウクライナの兵士。
マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの
赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ国民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いを
ポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ドィレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ国民共和国政府を立ち上げた。
一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。
ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反
社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。
ソビエト連邦時代
の犠牲。ウクライナ人は、1917年から1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナでは数百万人が餓死した。]]
1920年代にはウクライナ人への懐柔策として、ウクライナ語の使用や教育、ウクライナ文化の研究などを奨励する「ウクライナ政策」が採られた。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(
1921年 -
1922年、
1932年 -
1933年、後者はホロドモールとよばれ
2006年にウクライナ政府によって
ウクライナ人に対する
ジェノサイドと認定され、またアメリカ・カナダ・イタリアなどの欧米諸国においては正式にジェノサイドであると認定されている)に見舞われ、推定で、400万から1000万人が亡くなった。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、
レーニンや
スターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとスターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、即ちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった)。
第二次世界大戦が始まった
1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、
ナチス・ドイツ軍は同盟国である
ハンガリーへその領土を組み込んだ。
1941年以降の
独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。
画像:Ukrainians-germans-1941.jpg|1941年の「解放者」の歓迎。
画像:1943 hofscheller.jpg|ドイツ軍へのウクライナ人の志願者。
画像:Dayosh Kiev.jpg|ソ連側に戦ったウクライナ人の兵士
ナチス・ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、親ドイツ派の自由ウクライナが結成され、ウクライナ人の
武装親衛隊が結成された。しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月に
ウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺された
ユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。
一方、ウクライナ蜂起軍 (UPA) などウクライナのパルチザンはドイツ軍、ソ連軍の双方と戦ったが、世界のいずれの国家からも支援を受けられなかったこともあり、結局ウクライナの独立は成功しなかった。ウクライナは第二次大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。
ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。
第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」とといわれた。
1954年、
ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランドに対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
独立ウクライナ時代
1991年、
ソ連崩壊に伴って新たな独立国家ウクライナとなり、
独立国家共同体(
烏語 СНД ;
露語 СНГ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ民族共和国の中枢機関であった
ウクライナ中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「
トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。
2004年、大統領選挙の混乱から
オレンジ革命が起き、第三回投票で勝利したユシチェンコが2005年1月、大統領に就任した。
2006年
6月22日ウクライナ最高議会選において
ユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けて
ティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロス氏が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首
ヤヌコーヴィチ氏の首相指名を提案。結果、8月にヤヌコヴィッチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、
2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。
政治
ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する
議会制民主主義(
共和制)である。
大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。
ウクライナの国会は、「
ウクライナ最高会議」(
Верховна Рада України;Verkhovna Rada Ukraijny)であり、一院制で450議席。全議席は全国区の
比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。
2006年の選挙で議席を獲得した政党は5党(
地域党、「われらのウクライナ」、
ウクライナ社会党、ウクライナ共産党、ティモシェンコ連合)。2007年10月選挙は地域党が最多議席を確保したものの、「ティモシェンコ連合」が第2党に躍進。その他は「われらのウクライナ・国民自衛」、共産党および前最高会議議長ヴォロディームィル・リトヴィン率いる中立派の「リトヴィン連合」が議席を確保、社会党は得票率3%に及ばず全議席を失った。
2004年ウクライナ大統領選挙
11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(
オレンジ革命)。
欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、
12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、
30日には提訴が却下された。翌
2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見せた。
画像:Vladimir Putin in Ukraine 23-24 August 2001-9.jpg|「隠居の大統領」。クチマとプーチン。
画像:Yushchenko2.jpg|「管鮑の友」。ユシチェンコとブーシュ。
画像:Viktor Yanukovych in Brussels.jpg|旧犯罪者および旧首相。ヤヌコーヴィチ。
画像:Julia Tymoshenko 2008.png|「ウクライナの政治の魔女」。チモシェンコ。
なお、この選挙期間中、マスコミはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙では
アメリカのウクライナ系政治団体の資金援助や
ソロス財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命と言うよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素のひとつであった。また、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係している、という分析もある。つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反ロシア的な勢力を支援させるということは不自然ではない、というのである。しかし、このような
ロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ、アメリカ側の都合だけで革命が推進されたという構図の単純化は妥当ではない。
その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、
2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。
軍事
ウクライナ軍は、陸軍、海軍、空軍の3軍種から成る。2005年末の時点で、総員24万5千人(内、軍人18万人)。
画像:800px-Zsu prapor.jpg|陸軍の軍旗。
画像:Ps flag.jpg|海軍の軍旗。
画像:Vms flag.jpg|空軍の軍旗。
ウクライナには、ウクライナ軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。
外交
一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことにより急速に悪化。そのため、大統領はロシアとの関係に対する意見の相違からティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、現在ではロシアとの関係修復も模索している。
ビザ
ユシチェンコ大統領は2005年
7月19日、同年
8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(
査証)を免除することを定めた大統領令を布告した。しかしながら、2007年6月現在、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要で、今後ともさらに審査の厳正化が継続される見通し。
地方行政区分と都市
ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。
経済
ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は
天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどを
ロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。
1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内で強い抵抗が起きたことから、すぐに改革は停止され、過去に逆行するような政策がとられた。
1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。
1993年の末頃には、通貨政策の失敗により
ハイパーインフレーションにまで至った。
現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。
2000年の
国内総生産(GDP)は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。経済の成長は
2001年も続き、実質国内総生産で9%、工業生産高で14%以上伸びた。
2002年から
2004年の間も、
中国への鉄鋼輸出の急増に起因して急成長を続けた。
ところが
2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出等によって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカなどとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価な資源供給が受けられなくなり、またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。
ロシアとの関係が急激に悪化し経済が失速する中で、特にウクライナ経済を牽引していた東部地域の住民を中心に、ロシアとの関係改善を望む声が急速に高まった。危機感を覚えた大統領はまずティモシェンコ首相を解任。ついでモスクワを訪問し、「ロシアは我々の永遠の戦略的パートナーだ」と発言するなど、ロシアとの関係修復に奔走した。しかし、このロシア関係のみが現在ウクライナの経済を低迷させている要因というわけではない。
交通
人口
の人口(
2001年度全ウクライナ国勢調査より)。]]
東部や南東部の産業地帯は最も人口が集中しており、全人口の70%が都市部に住んでいる。
画像:Ukraine cencus 2001 Native language.svg|諸言語の割合図。
画像:Ukraine cencus 2001 Ukrainian.svg|母国語としてウクライナ語。
画像:Ukraine cencus 2001 Russian.svg|母国語としてロシア語。
画像:Ukraine cencus 2001 Ethnic groups.svg|諸民族の割合図。
宗教
(
世界遺産)。]]
主な宗教は、
正教の一員である
ウクライナ正教会であるが、人口の半分以上は無宗教である。ウクライナ正教は
モスクワ総主教に属していたが、ウクライナの独立とともに、モスクワ総主教庁から分離独立した
キイウ総主教庁が設立された。現在、このキイウ総主教庁・ウクライナ正教会がウクライナにおいて最大の教会となっているが、この正教会の教会法上の合法性を認めている他国の
正教会は存在しない。これに次ぐ正教会としてモスクワ総主教庁のもとにとどまっている
ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)があり、こちらは他国の正教会からも教会法上の合法性を認められている。
教育
1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。
必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目で、ロシア語は選択科目となっている。
ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3ヵ月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。
大学
文化
料理
スポーツ
文学
美術
祝祭日
ウクライナ出身の有名人
政治
文学
学術
スポーツ
音楽・芸術
映画
関連項目
参考文献
- 黒川 祐次 『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』 中央公論新社 ISBN-10: 4121016556
脚注
外部リンク
*