概要
軍政の開始
6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメリカ軍によって占領された。
日本降伏後の
8月20日に、解体した沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関として、アメリカ軍によって『
沖縄諮詢会』が設置され、後に権限が沖縄諸島全体までに拡大された。また
宮古支庁、
八重山支庁は戦火を免れ存続していたため、それぞれ
宮古列島、
八重山列島の行政をアメリカ軍直属で行うこととなった。1946年(昭和21)2月には、アメリカ軍が占領しつつも日本の主権が認められていた
鹿児島県大島郡(
奄美諸島や
トカラ列島)も、
鹿児島県から切断されて軍政当局下に置かれ、
大島支庁からも本土出身者が追放された。
アメリカは当初、沖縄県民などは日本の
帝国主義に支配された異民族であると認識しており、
朝鮮半島と同じく
国際連合による
信託統治期間を設けた上で、日本から分離独立させることを計画していた。軍政もそのための準備段階として捉えられていたのであるが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領期間中、
ソビエト連邦を中心とした
共産主義国との
冷戦が意識されるようになり、信託統治にした場合、軍用地を自由に接収できなくなるほか、国連へ統治の実態の報告を毎年義務付けられているなど、ソ連と対抗し、共産主義の防波堤として利用するには不都合であった。そこで、独立を前提とした信託統治計画を取り下げ、日本の潜在的な主権を認めつつ、軍による統治の形態をとることとした。そして、従来の軍政機関である琉球列島米国軍政府を
琉球列島米国民政府に改組した。
アメリカ軍は日本軍の旧基地を獲得していたが、さらに演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に住民の土地を強制的に接収していった。これらの様子は「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例えられ、アメリカ軍の強権の代名詞となった。
本土からの分離
1952年(昭和27年)の
日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)において、潜在的な日本の主権は確認されたが、引き続きアメリカ軍政下に置かれることとなった。当初、四つに分割しそれぞれ
群島政府を置いていたが、それらの知事達(民選で選ばれた)が日本への復帰を公言要求したため、
1952年、群島政府を廃止し
琉球政府をおいた。
なお、奄美諸島は
1953年(昭和28年)
12月25日に日本に返還された。このとき、米軍は「日本への
クリスマスプレゼント」だと冗談交じりに自画自賛していたという。しかし、奄美諸島から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持の必要、公務員からの追放が行われるなど、いくつかの副作用がもたらされた。
高等弁務官統治
- 歴代高等弁務官
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ジェームス・E・ムーア陸軍中将(1957年7月 - 1958年4月、1955年2月 - 1957年6月までは民政副長官)
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ドナルド・P・ブース陸軍中将(1958年5月 - 1961年1月)
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ポール・W・キャラウェイ陸軍中将(1961年2月 - 1964年7月)
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アルバート・ワトソン陸軍中将(1964年8月 - 1966年10月)
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フェルディナンド・T・アンガー陸軍中将(1966年11月 - 1969年1月)
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ジェームス・B・ランパート陸軍中将(1969年2月 - 1972年5月)
特に、第3代のキャラウェイ中将の統治は、「琉球」を多用して沖縄住民のナショナリズムを刺激して日本との分離政策を推し進めたり、強権を発動したりと、「
キャラウェイ旋風」と呼ばれた。
統治の終了
- 返還へのいきさつは沖縄返還を参照。
沖縄諸島は1972年(昭和47年)5月15日に日本へ返還された。
政治
琉球列島高等弁務官のもとに琉球列島米国民政府が置かれ、琉球政府の上部組織として間接的(場合によっては直接的)に統治した。司法権を行使するために独自の裁判所(
米国民政府裁判所)を設けていた。
琉球政府の長は
行政主席で、初期の頃は米国民政府が直接任命していたが、後に
立法院の意向を反映した任命に変わり、最終的には
直接選挙制に移行した。任期は特に定められていなかったが、
公選制導入時に3年となった。
立法院(
議会)は
一院制で、約30議席を20歳以上の琉球住民による直接選挙で選出した。任期は2年(後に3年)である。
地方行政区画
地理的区分として、5の地区に分かれていた(1970年時点)。戦前や現代の「
郡」の区分とは微妙に異なっている。
- 沖縄北部地区
- 沖縄中部地区
- 沖縄南部地区
- 宮古地区
- 八重山地区
地理
鹿児島県
大島郡と
沖縄県で構成された。後にトカラ列島は1952年に、奄美諸島は1953年に日本に返還された。
琉球政府章典によると、その範囲は「北緯28度東経124度40分の点を起点として北緯24度東経122度、北緯24度東経133度、北緯27度東経131度50分、北緯27度東経128度18分、北緯28度東経128度18分の点を経て起点に至る線の内側」とされた。
経済
沖縄戦の影響で経済基盤が破壊された沖縄県では、通貨として日本円のほか、アメリカ軍の
軍票である
B円が用いられた。
1948年(昭和23年)から
1958年(昭和33年)まではB円が唯一の通貨であったが、1958年以降はアメリカドルが使われた。
日本本土との往来は、
パスポートが必要となるなど制限が行われた。しかし日本本土との経済圏が分離されたことで、地元の企業が多数設立されることになった。
また、アメリカ軍の基地が多数設置されたことにより、基地における雇用が確保された面もある。
交通
全域が島嶼という事情から、域外への移動や県内離島間の移動は海路や空路が主に利用されていた。
道路
住民
人口の大多数が、「沖縄県」に本籍を有する「
琉球住民」であった。在留外国人(米軍関係者を除く)で一番多かったのは「日本人」(沖縄県外に本籍を有する
日本国民)で約18000人、アメリカ人約7500人、中国人約2000人であった。
教育
本土と同じ
6-3-3制であった。ただし、公立の
小学校・
中学校を運営するのは
市町村ではなく「
教育区」という特別な公法人が担っていた。
高等学校は、政府立学校が39校、私立学校が4校あった。
文化
祝祭日
脚注
関連項目
外部リンク
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